20220207 社会&感謝

「好きなことで生きていく」ってのは素敵なお題目だけど、好きなことだけをするためにはその裏に好きでないことをやる(やってくれる)人がいないと成り立たないね、と思った。

各々に各々の得意分野ややっていても苦にならない分野があって、みんながそれだけをしていれば社会や組織が回るのであれば最高だけど、どうもそうはいかないのだろうなという気がする。
人が寄り集まって好きなことを持ち寄る時、ジグソーパズルのピースのように隙間なく好きなことが噛み合えばそれは奇跡的なことだけれど、実際はベン図のようにやりたい領域がかぶったり、または歯抜けのようにだれも担当したくない領域が発生したりする。
そこをぐっとこらえて、自分のやりたい領域でも相手に譲ったり、やればできるけど誰もやりたくないような領域を担当する人が必要で、そういう人がいわゆる「ジェネラリスト」と呼ばれて重宝されるのだろうなあ、と。

しかし、一方で気にかかることもある。
いわゆる「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれる、社会を維持していくのに必要不可欠な労働をしている労働者ほど賃金が低いという統計があるらしい。
その裏側には、「エッセンシャル・ワークをしている人々は、社会に対する貢献感というある種の「倫理的・感情的」な報酬を仕事によって得ているから、金銭的な報酬は少なめでいいよね」というなんだか倒錯した価値観が通底しているとかなんとか。
『ブルシット・ジョブ』っていう本の中でそう言ってるらしいです。その本まだ読めてないんですけど、なんかそんな感じらしい。

そして、その理論で言うと「ジェネラリスト」も「エッセンシャル・ワーカー」と似たような立ち位置になるんじゃないか?っていう。
誰でもできる(ように見える)かつ誰かがやらないといけないような、組織を回していくのに必要不可欠な仕事ほど、その労働の価値は低く見積もられてしまうのではないかなあと。

まあしかし、それでも誰かがやらなきゃいけないタスクは誰かがやらなきゃいかんのだし、せめてそういうタスクを率先してやっていける人になれるといいですね。
ありっちゃありスパークの中で原宿さんも言ってたもんな。「切れかけの蛍光灯を変える人になれ」って。

ありスパはおじさん2人が寄り集まってずっとこういう感じの話してるからいいですよね。おれも社会とかすぐ言っちゃう感じの人間だから、かなりわかりみが深い。

3月4日(金)に吉祥寺でラップでライブすることになった。がんばるぞっ